差別といじめ

高1の娘が保育園児だった頃、クラスにはダウン症の子が一人と、
腕が欠損している子が一人いました。
ダウン症の子は落ち着きがないときは、専属の先生が一人つきましたが、
腕がない子はたいがいなんでも出来て、それこそ手がない方の腕でも
物を持ったりも出来て、
もちろん不自由はあったんでしょうが、それを感じさせないくらい
周りの友達が当たり前に手伝うという環境でした。

それこそ2歳とか3歳とかっていう小さなころから、
普通に一緒に過ごしてきたので、あの頃のクラスの子供たちに
差別意識なんて微塵もなかったように思います。

みんな、とても仲良しでした。

卒園して、小学校は別だったので、それ以来会うことはありません。

娘が小学校に入ると、特別支援学級がありました。
通称わかば学級で、1年から6年まで一緒に過ごしています。

最近まで、普通学級に入るのは、障害がある子の場合はかえって大変だから、
わかばの方がいいんだと思っていました。

その子に合った教育を受けられるし、
先生一人に対して、生徒の人数が少ないので、手厚く見てもらえる。
保育園の頃、みんないっしょくたで過ごしていたのに、
小学校からはそういうものなんだ…って思っていたんです。

最近になって、海外にはわかば学級がないと知りました。
保育園と同じように、みんな一緒になって、何かあったら当たり前に手助けする。
クラスに勉強が出来る子と出来ない子がいるように、
運動神経抜群の子と、苦手な子がいるように、
何かが少しうまく出来ない、
助けが欲しい点がある、
そういうだけの違いでした。

でも、小学校からずっと「わかば」という概念があると、
差別する感覚が知らず知らずのうちに根付いてくる。
区別ではなく、差別。

もともと島国根性の日本人は、よそ者を寄せ付けないというか、
壁を作りがちな習性がある気がします。

道で外国人観光客に話しかけられても、英語が話せないというだけで逃げてしまう。
でも言葉って、保育園のころはほぼ下手でした。
親ですら、子供が何を言ってるのかよく理解できないころ、
子供たちはどういうわけか、それでもコミュニケーションをとって遊んでいました。

それも楽しそうに。

年中さん、年長さんになって、うまく気持ちを伝えられる子と、まだそれがうまくない子がいても、
それが原因で不和が起こるなんてことはありませんでした。

何を言おうとしているのか、子供たちは全身全霊で耳を傾けていたように思います。
耳じゃないですね。

心を添わせていたんです。

小さいころ、みんながみんな、当たり前にしてきたこと。

大人になるにつれて、どうして出来なくなっていっちゃったんだろう?

ゆとりがないから?

それもあるかもしれない。
みんなせかせかしています。
子供が拙い言葉で話しているとき、
じっと言い終わるのを待たないで、「こう言いたいのね」と言葉をかぶせてしまうお母さん。

みんなが出来ることを出来ない人がいると、すぐに落ちこぼれの烙印を押す。
目安としてではなくなっている、通知表というものの捉え方。

オール5は素晴らしい。
オール1なんて、人間として最低。

人としての評価は、勉強だけじゃないのに。

小学生の息子のクラスに、落ち着きがないというか、人にちょっかいを出す、少し厄介な子がいます。
厄介って言うのは、大人の私の感じ方であって、適切でないですけど、
いわゆる世間の大人として、こういう書き方をします。

3~4年の時に同じクラスになり、その頃はその子も相当荒れていて、
先生も手を焼いていました。
私は当時赤ちゃんだった娘を抱いて、学校公開に行ったのですが、
その子がはさみを振り回しながら、クラスの女の子を追いかけているのを見てぎょっとしました。

先生は気付いているのかいないのか、止めません。
私は大人なんだし、声をかけなきゃいけなかったのに、
娘に危害が及んだら…と、止めに入れませんでした。
わかってます。
情けないですね。

そのとき、止めに入ったのが息子だったんです。

面と向かって「やめろ」と言うのではなく、
その子の肩に手をまわして、
「まあまあ…」って言いながら、肩をポンポン叩いたんです。
それで、すっと終わりました。

びっくりしました。

心を添わせたんですよね。

引っ込みがつかなくもなっているその子に、恥をかかせるわけでもなく、やめるきっかけを作ったんです。

でもね、後で息子に聞いたんです。
怖くないの?って。

怖いよ、だから本当はいやだよ。

そう言いました。

だけど、いろんな子が集まっている教室で、
みんなで助け合ってやっていくって、大変なことも引き受けるってことなんです。

その子はわかば学級に行かないのかしら?
私も含め、他のお母さんたちも、みんなでよくその話をしました。

だけど、高学年になり、また同じクラスになり(絶対息子はこのクラスに必要だったんでしょう(;’∀’))
途中からサポートの方を入れて、その子が暴れそうなときにはなだめる役割をしてくれていました。

その子も薬を飲むようになったそうで、今ではかなり落ち着いています。
サポートもいらなくなりました。
友達なんかいなかったように見えていたけど、
仲良く遊ぶ姿も見られるようになりました。

息子がその子のことを、怖いと言うこともなくなりました。

子供たちみんな、成長したと思います。
その子が落ち着いたってことじゃなく、
みんなで成長した、その子も他の子も、
他者を思いやれる、優しい人間に成長できたって思います。

海外に特別支援学級がないのは、こういうことなんだろうな…って思いました。

出来ない子が弱者で、出来る子が強いってことじゃないんです。
お互いに同じだけメリットがある。

そして、みんな違う、人それぞれなんだってことを、
身を持って経験する。

ちょっと人と違うからって、色眼鏡で見たりしない。

恥ずかしながら私はまだまだ、あの子たちに比べたら、めちゃめちゃ色眼鏡です。
でも、違うってことを意識してしまうのは、
周りに同じような子しかいなかったから、
出会ったことがなかったから…の弊害だと思います。

私が子供だった頃は、それこそ隠すように育てられた時代だったと思います。
だから、まず周りにいなかった。

環境って大きいですね。

いま、うちの子たちは、障害がある子に対して身構えるなんてことはありません。
小学校では、わかばがありますが、
交流の場はあるようで、小さい子が好きな次男は、小学生の頃、
わかばにいた、とてもかわいい、人懐っこい子と、よく遊んでいました。

これから先、わかば学級って続くのかな?

メリットももちろん、あるんでしょう。
でもそれは、親や先生目線のメリットではないのかな?

私が言おうとしていることは、全然お話にならないくらい甘いことなんだろうか?

でも、絶対の答えなんかない。
世の中、正しかったことがひっくり返るなんて、よくある話でしょ。

みーんな一緒に過ごす。

成績の優劣なんて、いちいちつけない。

それでも勉強が出来る子、したい子はするし、出来るようになる。
出来る子だけ集めて詰め込んで、英才教育しなくたって、
伸びる子はちゃんと伸びる。

エリート大好きなこの国では、この考え方は邪道かな?

でもさ、これからは感情を表して良い、自由に生きていく時代なんだよね。

それがうまく機能していないから、
いじめの質が昔と変わってしまって、スケープゴートとしてのいじめになったりする。

大人の世界でも、ママカーストだとか、ボスママだとか(猿かよっ(--〆))
引きこもりだとか、ニートだとか…

ぜんぶ繋がってると思うのです。

国に期待するのではなく、
みんな一人一人の意識を変えていく努力をすることで、
自由でストレスのない、ストレスがあっても楽しい発散を出来るようになる、
平和で穏やかな世界を作っていきたい。

みんなが考えていかなきゃいけない、みんなの問題だよね?

私は子供たちと、子供のお友達と、縁あって知り合うことが出来たママたちと、
私の友達と、セラピーに来てくれたお客様と、これから出会う方たちが
少しでも少しでも笑顔になれるように、
そのために生きていきたい。